眠る妻に報告することがある!
3月5日日曜日、亡き妻の七回忌法要のために同居する母と嫁に行った娘と孫と、息子二人を伴って千葉県旭市の菩提寺に来た。この寺は天保水滸伝で有名な飯岡助五郎のお墓があるお寺だ。
今回の法要は自分にとっても子供ら3人を社会人にしたと妻に報告する、一区切りつける法要だ。
平成23年3月10日午後11時過ぎに妻は亡くなった。くも膜下出血で倒れて12日目の事だった。翌日は東日本大震災で自分だけ悲しみに落ち込むどころの騒ぎではなかった。
妻とはお互い10代の時に出会い、25年目の結婚記念日を迎える目前で結婚生活が終わってしまった。因みに結婚記念日は5月25日楠公祭の日である。
鈴木信行は23年から3年任期で党代表に就任したのだが、まったく波乱のスタートだった。妻は突然に亡くなり、末っ子はまだ高校生だ。翌日には東日本大震災と原発事故が起こった。
日本中が大混乱になり、東京も停電と混乱の中にあったが、家の中の時計は外とは別世界でまるで止まっているかのようであった。家族は母も含めて正常な様子には見えない。
家族の一大事なのだが、鈴木信行には党代表としての責任がある。党代表は無償の奉仕だが、仕事は盛りだくさんだ。打ちひしがれる家族を二の次にして政治活動に没頭した。
休む間もなく8月には新藤義孝代議士ら三人の議員らとの韓国行きに同行した。韓国との戦いの始まりだ。
翌24年6月には家族との生活を置き去りにして、ソウルにある慰安婦像に「竹島の碑」を縛り付け入国禁止となった。25年には指名手配されている。
24年に韓国から運よく帰国できたのは、靖国神社に眠る英霊のご加護のお蔭だろう。あの時に妻が生きていたら、家族が経済的にも迷惑を被ることが予想される韓国行きを、間違いなく止められていたであろう。
実は昨年早くに党代表を降りることを決断していた。これで家族との時間を取れる生活に戻れるかなと思っていたのだが、時間はすでに流れていた。
長女は早く結婚していたのだが、次々に孫が生まれた。長男も昨年春に社会人となり家を出て行った。末っ子も社会人となり働き出したので、父親の役目はとっくに終わっていたのだ。一家の一大事に家族に寄り添えない父であったが、子供らは勝手に逞しく育っていた。
子供らの成長した姿を墓前に報告しに、年老いた母と娘と孫3人と、逞しくなった息子2人を伴って、先祖が眠るお墓に来たのだ。そして、妻に子らの成長を報告しに来た七回忌であった。
娘に一番初めに生まれた孫娘は妻に会っている。一時だが一緒に生活していた時期も半年ほどあった。もう孫の記憶にはないようだが、人間は忘れるという便利な機能がある。それは悲しみも忘れられるから生きていけるのだ。
孫娘の耳元に妻の墓前でいつも囁く言葉がある。「祐美のことを忘れるな。どんな時でも君の事を守ってくれるからね」と、一言だけのど元が詰まりそうになりながら囁いている。
以上、ごく私的な昨日の報告でした。
(公式ブログより)